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학술저널
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저널정보
세계문학비교학회 세계문학비교연구 세계문학비교연구 제18호
발행연도
2007.1
수록면
51 - 75 (25page)

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安倍能成の見た朝鮮 神谷美穂  松山出身の安倍能成(1883~1966)は東京帝国大学哲学科を卒業後、ヨーロッパに留学を経て1926年、京城帝大哲学科の教授として京城にやってきた。赴任当初はかつてギリシャの哲学家プラトンがアテネ市民と対話をしながら彼らを教育したという逸話を例にとりながら、京城帝大の学生と対話を通して交流したいと話している。それほどに大きな期待を抱いて渡ってきた彼はまた、柳宗悦や浅川巧のような朝鮮に造詣が深い人物と交わりをもちながら、朝鮮各地を見て歩いた。特に安倍は朝鮮の自然や文化、風俗に関心を持ち、のちに大阪朝日新聞に京城での生活に関するコラムを連載し、1932年にはこれらの文章を靑丘雜記という1冊の本にまとめている。  靑丘雜記で安倍は'観察者'の立場から当時の様子を描写するのみにとどめており、ここから本国の政治や植民地政策自体に対する批判については伺い知ることができない。しかしながら、京城に住む内地からの移住者の生活を、むやみに日本の文化を持ち込みそれを矮小化しているだけでなく、朝鮮の文化と混じり合っていないと批判的に見ている。つまり、内鮮融和や一体を叫びながらもほとんど進行していないのは内地からの移住者が朝鮮人に溶け込もうとしないためだとし、両者間の間に今だ距離があることを指摘している。  1920年代半ばからうち出されるようになったいわゆる文化政策は、両者間の制度的な差別の解消を目的とした政策の延長線上にあり、その差別解消の必要性を当時の日本政府が感じるきっかけになったのが3.1運動であった。つまり日本側はこの運動が朝鮮人に対する差別扱いに起因するものと捉え、あらゆる面で差別待遇を改善していこうとしたのであった。そのためには内鮮融和が必要不可欠であった。京城帝大もまたこの内鮮融和路線の一環として設置された教育機関であった。従って安倍もまたこの政策の遂行の一翼を担っていたといえる。  しかしながら安倍は京城帝大で多くの学生と接しているうちに、両者間の考え方の差異に気づいたと思われる。日本側があまりに現実を見ていなかったということ、そして自らがつねに語っていた文化というものが植民地という現実では理論的に説得力を持たないことなど、理想と現実の間で悩んだ末、朝鮮を離れることを決意する。結局彼と朝鮮人学生とのあいだには、プラトンとアテネ市民のような対話がうまく成立しなかったためだ。

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