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저널정보
포은학회 포은학연구 포은학연구 제11권
발행연도
2013.1
수록면
137 - 173 (37page)

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多くの場合、麗末鮮初における思想傾向は 「崇儒抑仏 (排仏)」 と表わされる。しかし、当時の儒臣らの主張が 「崇儒抑仏」 を志向するものであったという共通理解が得られているのに対し、朝鮮建国後に為政者としてはじめて本格的に仏教政策を実施した太宗と仏教とのかかわりを総体的かつ整合的に論じた研究成果はいまだみられない。このような問題関心から、本稿では、朝鮮太宗と仏教とのかかわりを捉え直す試みの一環として、彼の仏教に対する態度を中心に検討を加えることとした。従来繰り返し述べられてきたように、即位当初の太宗は仏教に対する否定的認識と態度を明示していたが、太宗六年 (1406) の寺院整理以降、彼の仏教に対する態度は変化の様相を呈し始めた。安魯生による僧雪然摘発を直接の契機として開始された寺院整理は、僧徒らに国家や政丞河崙に対する恨みを抱かせることとなり、これらを背景として僧恵正により河崙と安魯生の謀殺が企図された。この恵正処罰に際し、河崙らは僧徒の反感や恨みの強さに対する配慮から太宗に恵正の処罰を軽くするよう進言したが、このとき太宗は僧徒の寺院整理に対する反感や恨みをそれほど重大な懸念事項であるとは捉えていなかった。しかし、六年八月に知申事黄喜により僧徒を使役しての倉の建造が提案されると、太宗は河崙らの進言を内面化して僧徒の恨みに対する配慮を示し、僧徒に恨みを重ねさせるような施策を避けようとする態度をとった。さらに、その工事が数ヶ月間続く中で、太宗は僧徒に対する配慮というべき考えを持つようになっていった。一方で、太宗八年 (1408) の太祖逝去を前後して継続的に仏教行事を開催した太宗は、その流れの中で次第に仏教に対する関心を持つようになっていった。太宗は寺院や仏像、仏教に対して気遣いを行いその存在を容認する態度を見せるようになり、十四年 (1414) には仏教に対する 「無棄無誉」 という態度を表明した。これは、自身が仏教に対して帰依も排斥もせずに今ある状況を是認する、という態度であるとともに、他の儒者もまた仏教に対して 「無棄無誉」 であるのが望ましいとするものでもあり、自他ともに仏教の排斥を促進するような行為を許さず、当時の状況をそのまま維持しようと努めるものであった。太宗は、即位当初からほぼ一貫して仏教は信じがたいものであるとして不信仰を貫いた反面、治世後半には仏教が存在することを認めて配慮を行うようになり、むやみに仏教を排斥したり僧徒を苦しめたりすることを許さなかった。これは、寺院整理をはじめとする政策によって国家と仏教との関わりが断たれたことを背景の一つとしつつも、各所での僧徒の使役や太祖逝去にともなう仏教行事の実施によって、彼の仏教に対する関心の在り方が変化していく中で次第に形成されていった態度であった。

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